星野智幸

 それは田畑の中に突然出現した、プール付きの高層マンションであった(十一階建てだから現代ではもう高層とは言えないけれど)。横浜市北部の古く寂れた宿場町で、里山が削られて開発が始まりつつあった。小学校の同級生の半分は地元住民の子どもたち、残りの半分はどこかから移り住んできた新興住民の子どもたちだ。話す言葉も外見も違っていた。地元民の友だちが蜂の子を食べることに驚き、かれらの家の庭を掘って古銭探しを楽しむ一方、マンションの友だちの間では着飾ってプレゼントを交換し合うスノッブなお誕生日パーティーが流行った。  つまり、私自身が「ファンタジーでしかない街」に育った第一世代だというわけだ。その街の移り変わりを示すような痕跡はきれいに消去され、ただ現在の夢だけがたゆたっているかのような空間。そのような環境で現実感覚を育んだ私のような人間が増えれば、当然、社会の中で常識とされる現実感覚も変わってくるはずだ。  高台の住宅街の住民たちは、ほとんどが私と同世代かそれより下である。「ファンタジーでしかない街」に育った親が、さらに濃いファンタジーを求めてやってくるのだ。その子どもたちは、ファンタジーしか知らない世代の二世ということになる。  それはとても贅沢で恵まれていることだと思う。けれども、現実感覚はますます空想の中に閉じ込められてもいくだろう。その子どもたちのリアリティーが、インターネット空間のリアリティーととてもよく親和することは、想像がつく。  おそらく、私が街中の藪に惹かれるのは、夢から覚めたい、とどこかで熱望しているからだろう。ファンタジーである現実の中で心地よく暮らしながら、窒息しかけてその外に出たいとも感じているのだ。